ゲシュタルト崩壊

とある本を読んでいると、突然  という字が読めなくなった。こんな文字見たこと無い、みたいな感覚になった。しばらく落ち着いて考えてみると、少ないの下に力という字は「おとる、れつ」だと気づく。しかしそれでも再度その文字を見ても「れつ」に見えない、文字がただの線の組み合わせとしか認識できない。
そうか、これが世に言う「ゲシュタルト崩壊」という現象か。視覚から入っていくる情報を脳の形態認識回路が処理できないのだが、かろうじて記憶の部分が、「これはれつだよ」とささやく。両者の葛藤が楽しくてしばし自分の脳の動きを客観的というかメタレベル的に眺めつつ興味深いな、と感嘆したり。


そもそもゲシュタルト崩壊がなんなのかが不明な方はこちらをご覧ください。
ゲシュタルト崩壊 - Wikipedia


そういえば、中島敦の「文字禍」という作品があるのだが、これってまさにゲシュタルト崩壊だよな、と思ったり。
青空文庫にて読むことができます。
中島敦 文字禍
改めて読むと、歴史とはなんぞや、に関しても触れられている。

歴史とは、昔、在った事柄(ことがら)をいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?

書洩らし? 冗談(じょうだん)ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子(たね)は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。

なぜこの部分が気になったのかというと、今読んでいるのが歴史の本であったから、というのもあるだろう。今読んでいるのは、

ヤマト国家成立の秘密―日本誕生と天照大神の謎

ヤマト国家成立の秘密―日本誕生と天照大神の謎

出雲神話の謎を解く

出雲神話の謎を解く

かなり怪しげな本ではありますが。そう、邪馬台国、大和王朝、古事記日本書紀関係について書かれた本は一歩間違うと歴史書だかオカルト本だか分からなくなることが多い。
上記の著者の本はまだありますが自分の苦手分野をカバーするために買ってみました。休日なのでちょっとシステム関係から離れてみたい、というのもあったし、出雲大社伊勢神宮の区別もつかないくらい日本史ダメダメな人間なので、この本を、日本古代史を理解するための一部として活用しようと思った次第です。
まだ読んでいる途中なので評価は難しいですが、やはりこれ系の本はたくさん読んでバランス感覚を養わないと偏りそうです。かといって専門家が読むような難しい資料を読むことは無理なので難しいところ。とりあえず読みやすいのは確かなのでぐいぐい読み進んでいます。


日本史は苦手だが世界史は割と得意である。しかし、それ以前に歴史が嫌いである。(オイッ) 昔は好きだったが、年を重ねるに従って嫌いになってきた。歴史ではなく、歴史的といわれている書き方、言説に疑問を抱くようになったからだと思う。


よく、歴史とは勝者によって書かれた歴史である、などと言われたりするが、そういうのは問題ではない。根本的に、「○○王朝は△△国の××王によって滅ぼされた。」みたいな原因と結果の記述方、因果関係の記述方自体に違和感を感じるのである。


人は何か事象が発生した際、「なぜ?どうして?」と疑問に思う。疑問をもったままではどうも気持ちが悪い。だから答えを求めようとする。こうこうだからこうなったんだよ、と説明がついて自分が納得するとすっきりする。


そこで導かれた因果関係、説明は果たして正しいのか?もしかしたら正しいか間違っているのかは関係なく、自分が納得しやすいものであるかどうかによるのではないか。


人にとって、分かりやすい説明とは物語形式になる場合が多い。こうこうだからこうなったんだよ、ということ自体一種の物語である。じゃあ物語形式で記述されたものは事実を忠実に表現できるのだろうか。いや、もっと言うと、物語形式では記述できない、ただの偶然や、説明できない複雑なことが起こったとしても、物語で記述できなければそれは歴史としては残らないのではないか。


そんな風に考えるようになったきっかけとなった本が、ポール・リクールの『時間と物語』である。

時間と物語〈1〉物語と時間性の循環/歴史と物語

時間と物語〈1〉物語と時間性の循環/歴史と物語

時間と物語〈2〉フィクション物語における時間の統合形象化時間と物語〈3〉物語られる時間

一言で言うと、いや、とても一言では言えないのだが
「人間は物語としてしか理解できない、しかし歴史は物語であってはならない、しかし物語ではない歴史は存在できない。」
といったところか。実際にはアリストテレスアウグスティヌスの時間論、もちろんハイデガーの『存在と時間』、などからじっくりと濃密に論理展開されている本です。結構読むのつらいです。(そんなのばっかり紹介する自分はアフィリエイトする気があるのだろうか。。)

ポール・リクールはフランスの歴史学、哲学者で、自著もさることながら、批評、評論に定評があり、グラン・レクトゥール(偉大な読み手)と呼ばれました。リクールの考え方は自分にかなり影響を与えており、「心の師」と勝手に仰いでいます。


なんか最初からかなーり脱線しましたが、雑感ということで勘弁。