情報環境論集

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

情報技術と社会の関係についてかかれた本書。密度がとても濃いので、要約とか分かりやすい解説とかは正直無理。よって個人的メモ。

本書は大きく2部に分けられる。(正確には3部から構成されるのですが、3部目は用語集なので今回は除く。)

第一部 情報自由論

フーコーいうところの、「規律訓練型権力」これは近代的な権力的構造。つまり一昔前の構造。
その後出てきたのが、「環境管理型権力レッシグ的にいうと、「アーキテクチャ
レッシグは制約を与える要因として4つ挙げる。「法」「社会規範」「市場」「アーキテクチャ
現在、技術の進歩によりアーキテクチャによる規制ができてしまう状況になった。監視カメラ、RFID、などなど。
それによる問題として、主体は意識せずに制約の中に組み込まれてしまう。動物化といってもいいのかもしれない。
個人が容易に特定されてしまう。
何よりも、速すぎる技術革新に言論、思想が追いついていないことの危機感。だからこそ本書が書かれたのだろうが。
「便利だから」「安全、安心のために」と言われると反論しづらくなるが、それによりトップダウンの権力行使ではなく、人々自らが監視システムを構築してしまう危うさ。

疑問だったのは、自由を獲得することと匿名性というのははたして一致するものなのか。匿名性が求めるゴールなのかな、ちょっと弱いかな、と。

第二部 サイバースペースはなぜそう呼ばれるか

そういえば、セカンドライフってどうなって・・・。なんて疑問を感じる昨今ですが。
サイバー「スペース」という「空間」はそもそも存在するのか。というかなぜ人はそれを「空間」と呼ぶのか。
1980年代、サイバーパンク小説ウィリアム・ギブスンニューロマンサー』の舞台となるのがいわゆるサイバースペース。SFの舞台として、宇宙(空間的異世界)、未来世界(時間的異世界)がネタ切れを起こしていた時期に現れた舞台が「サイバースペース
しかし、ネットの世界は「空間」というよりはネットワーク、「網」に近い。

P.K.ディックを引き合いにして、サイバースペースと政治、宗教の関係について語り。ディック作品の不安定さとフロイトの「不気味なもの」との関係。

インターフェース的主体性
スラヴォイ・ジジェクラカン、メルロ・ポンティと続きながら、「見えるもの」と「見えないもの」という観点で。
想像界(イメージ)、象徴界(シンボル)の二重化

つまり、「サイバースペース」という場にはなにが置かれているのか。イメージなのか、シンボルなのか、ということ。
両者が弁証法的に組み合わさっているのか、はたまたどちらでもない「エピステーメー」のようなものが現れてくるのか。

ただ、これらの議論が想定している仮想世界というものよりも現実のネット世界のほうが進んでしまっているということはないか。SNSソーシャルブックマークTwitterの緩いコミュニケーション、ニコニコ動画などのほうがもっと進んだ仮想世界を構築しているのではないか。それらを本書が語れたか、というと疑問。まあ本書はもっと抽象的なところを狙っているので語っていないのは当然ともいえるが。


第一部は2002〜2003年に雑誌に連載されたもの。第二部はなんと1997〜2000年。10年以上前に書かれたものである。単行本化が遅れた理由を著者は、連載中に内容に戸惑いを感じた、とか「失敗」などと述べているが、触発される部分たくさんあって刺激的でした。


ised@glocom : 情報社会の倫理と設計についての学際的研究 読み直そうかな。